玉07 「観音森」 にかほ市象潟町小砂川字観音森
地形図とルート
▲Google map
▲大須郷付近から見た本峰。
▲鉾立付近から望む本峰。
▲観音森集落から焼山林道へと入る。
▲観音森へと続く尾根に取りつくため林道から外れる。
▲いきなり沢の渡渉となった。
▲作業路跡と思われる所を辿った。
▲なんと作業道があった。どこかに橋があったのだろう。
▲地形と進行方向をを確認しながら作業道を辿った。
▲作業路終点から取りつき予定の尾根。この作業道のおかげで容易に進むことができた。
▲杉造林地を抜けると広葉樹林帯となった。
▲取りつき尾根。広く快適でかつては登山道もあったようだ。
▲残雪も現れると観音森林道が見えてきた。
▲観音森林道を渡り沢目を進むと再び造林地となった。
▲造林地を抜けると目指す観音森が見えてきた。
▲山頂の直下。藪を避けるため残雪が繋がっている場所に向かう。
▲雪も緩みアイゼンがなくても登れそうだった。
▲山頂手前の肩付近。雪庇もなく安全なようだ。
▲この笹藪の先が山頂のようだ。
▲笹藪を2~3m程漕ぐと草地の山頂に着いた。
▲山頂のプレートと三角点?
▲なんと山林局の次三角点。珍しい。
▲二等三角点の標石はこちら。少し離れてある。
▲標石
▲上部
▲鳥海山方面の景色、残念ながら雲に隠れて山頂は見えなかった。
▲山頂の肩からにかほ市方面の景色。
▲山形県側の景色。
---基準点詳細---
基準点コード:TR25839574501
点名:観音森
俗称:桑ノ森
所在地:秋田県にかほ市象潟町小砂川字観音森
冠字選点番号:玉07
種別等級:二等三角点
地形図:吹浦
測地系:世界測地系(測地成果2011)
北緯: 39°07′02″.1516
東経:139°56′52″.9496
標高:685.00m
選点:明治39年04月22日
設置:明治39年07月18日
観測:昭和50年07月24日
備考:
---訪点記録---
訪問日:2014.04.12
自動車到達地点:観音森集落・焼山林道
歩道:なし 尾根・残雪を利用する
周辺:笹地・裸地
状態:正常
保護石:0個確認
出発時間:06:55 駐車地
到達時間:08:07 三角点到達
出発時間:08:28 三角点出発
到着時間:09:05 駐車地
全行程:130分
備考:
---訪点の記---
最近、何故か公私共に忙しく、また年度末にインフルエンザに加え、手首を骨折してしまった。こんな状況では山に行く気力が全く湧かずにいたのだが、残雪があるうちにこの観音森は探訪しておきたいと思い、少し時期的に遅くなってしまったが訪れることにした。
当日の朝の気温は-1℃。これなら残雪も固く歩きやすいかと思われたが、象潟に着く頃には気温が既に8℃までになっていた。
里はもう春で、桜が少し咲き始めていた。残雪を利用して容易にアプローチできるのもこの日が最後のチャンスだと思ったが、ある程度標高が上がるまでは藪漕ぎを覚悟していた。
期待と不安を胸に現地に到着。さっそく観音森集落から林道を歩き適当な場所から杉造林地内に入った。すぐに小沢があり、渡れる場所から対岸に渡渉した。
最近、間伐されたと思われる林内は歩きやすくて少し歩くと作業道に出た。幸い林道は観音森に続く尾根沿いに延びていて、ぬかるむ重機道を歩いた。その作業道終点から離れ尾根に取り付くと、すぐに造林地から広葉樹林となり、初春の歩きやすい尾根になった。結構、雪が解けていて今年の藪慣らしにはちょうど良かった。
観音森林道まで登ると樹々の間から下界の景色を見ることができた。もちろん観音森林道はまだ雪に埋れていた。
少しの休憩の後に、私はまだ残雪がたくさんある沢沿いを歩いて進んだ。向って右側の尾根は観音森の直下に続く尾根だったが、残雪が少なく、雪の踏み抜きを多発するかと思い、その尾根を登るのは止めた。
残雪を踏みしめ少し歩くと杉造林地になり、次第に傾斜が増してきた。雪が柔らかくなってきていたのでアイゼンなどは必要なかった。その急斜面を登り切り、さらに尾根を乗り換えた。ちょうど杉造林地と広葉樹林の境界を登った。しばらく登ると、ようやく観音森の山容が見えるようになった。
山頂直下に着くと再度ルートを確認した。西斜面は既に藪が出ていたので、まだ雪が残る東側に向かって登ることにした。取り付きから急斜面だったが、やはり雪が柔らかくなってきていてキックステップで登った。
山頂に続く尾根は緩やかで、にかほ市側の景色が一望できたが、残念ながら鳥海山は雲に隠れて見ることができなかった。
山頂までは背丈程の笹薮になっていたが、幸い山頂まで残雪が繋がっていて、容易に登ることができた。残雪の背後の笹を少しかきわけると草地で視界の良い山頂に辿りつくことができた。
手書きの標柱がある観音森の山頂の傍には三角点の標石があった。しかし、私は標石の材質が違う事に気がついた。標石の文字が消えかかっていて判別に苦労したが、どうやら営林署で設置した次三角点だった。北面に『山』の文字があり決め手になった。
秋田県側は確か昔は部落の草刈り場などで民地となっているはずなので、山形県側の国有林の境界となっているはずだ。しかし、営林署(山林局)の三角点は当時の陸地測量部に所管を全て移しているので、この標石はすでに廃点となっている。
それから私は二等三角点の標石を探すために周囲を歩いて探し廻った。すると二等三角点の標石は営林署(山林局)の三角点より2~3m南側にあった。
保護石は天の記では4個となっているが、今回は見つけることはできなかった。それにしても山頂は風が強くて冷たい場所で、私は早々に観音森の山頂を後にした。
---地名の由来・追記など---
★観音 阿弥陀如来の脇待である観世音菩薩を祀った場所か信仰地名。カンノ(採草地・焼畑・噛む野)で焼畑地もあるか。あるいは「噛む」で浸食崩壊地形も考えられるか。 抜粋「地名へのいざない」戸澤敬三郎 P109 カンノウジ・カンノジ・カンノンドウ
★戊辰戦争での観音森
慶応四年(1868)七月十三日 由利口の諸藩隊(亀田・本荘・肥前)、小砂川村で庄内軍と戦闘に入る。払暁、秋田軍が小砂川に放火。秋田藩一番隊、観音森を占領。猿穴の番所を焼く。
抜粋 「象潟町史 資料編Ⅱ」 第一章「国家大改革の明治期」P15 戊辰戦争 後半戦
★仲峰山 雲昌寺
宗派 曹洞宗
本尊 聖観世音菩薩
所在 小砂川字砂畑五 住職 -----
寺伝によると寛永十年(一六四二)に仁賀保小国の陽山寺六世桂室胸嫩を勧請開山として、秋田、山形県境にある三崎山にあった真言宗仲峰山雲上寺を改宗、清水上い遷して曹洞宗仲峰山雲昌寺として開基したという。
別伝によると、もと天台宗で賀春院と称し、観音森山上にあってその後、雲上寺として三崎に移し、さらに小砂川の現在地に遷して雲昌寺と改めた、ともいう。
この寺の本尊は金銅仏の聖観世音菩薩で、背後には「応長二年(一三一二)壬子願主公尊院寄進」と刻銘されている。寛永十九年は開山の桂室胸嫩が死去していることや、小砂川への移転となった女鹿村との境界争いによるものが考えられている。今のところ、開創の年代を元禄年間(一六八八~)の説と、この寛永十九年の説があるがいずれとも決していない。
その後、祝融の憂うべき時もあったとするが、文化五年(一八一八)魯嶽が中興した。さらい戊辰戦争においては兵火にかかり、本尊と過去帳の一部を除いて焼失してしまった。観音森は桑の森といったところであるが、賀春院の観音堂からその名が残されたのであろう。ちなみに、戊辰戦争では観音森が佐竹大和義遵が率いる秋田軍が庄内軍のために春の緒戦で惨敗を喫した、まさに歴史的な場所でもある。寺院は明治二年に再建する。大正十三年には羽越本線開通のための移転を余儀なくされ、現在地に遷された。
抜粋 「象潟町史 通史編下」 第2章 「象潟町の神社と寺院」 P762 仲峰山雲昌寺
★観音森経由の道
旧「象潟町史」には県境三崎峠は鳥海山の第三紀噴出によって流出した溶岩が日本海に注ぎ、この辺一帯が岩山になってしまったために通ることができなかった。そこで落伏、高照寺、観音森、焼山、小滝、象潟への道路が開かれていたと「観音森旧道想像図」を掲げている。
それを見ると落伏から北東、滝淵川沿いに駒止をめざして登り、猿穴(七六七㍍)と観音森(六八五㍍)の間を通って小滝へ出、そこから象潟へ出る道と「すごせ山」から左折して関へ下り、居川権現から象潟へ入る二つの道が描かれている。ちなみに猿穴と観音森の間にウヤムヤの関、猿穴の県境南側に高照寺(興昌寺)屋敷跡、北側に渓昌寺屋敷跡と記されている。
新野直吉は、概して古道が丈なす葦や萱が生え、灌木林の繁る低湿地の如きは避けて通るのが常であって、地盤も安定し、地形的にも一段高く、飲用の湧水に恵まれる扇状地の扇端部や、台地の麓を過るように通るのである。
遊佐から北に向かう道も原則的には同じである。鳥海西麓台地の末端部あたりをだんだんに登って観音森の肩あたりの鞍部を越えたのである。もちろん現在の国道のように三崎峠の方の道も考えられる。この峠の開削は事実として後世の事であったとしても、理屈の上で、この方向に道があることも決して不都合ではない。だから、おそらく海岸近くを通る小径もあったに違いない。
鳥海西麓を陸路で越える道は、地図上ではその他の二つのコースが想定できる。一つは観音森から川袋川に沿って大須郷へ下り、象潟に入る道。もう一つは吹浦から現国道7号線を沿うように三崎峠を越え、象潟へ達する道である。このうち距離的に最も近く有利なのは三崎峠越えではないかと思われる。観音森から左折し、大須郷へ下る道は三崎越えに比べると三角形の二辺を行くことになって遠回りである。観音森経由は季節が良ければ通行できたが、晩秋から翌年の春遅くまでは積雪のため通行は容易でなかったろう。
観音森は明治十五年(一八八二)十一月の内務省地理局の「秋田。山形県確定文書」の「境界御検査に係る地字書き上げ」(旧・象潟町史)によると、古来、庄内側では石観音森といい、由利では烏帽子形と称していた。さらに明治十四年十一月「飽海郡・由利郡両郡境界線点理由書」によれば、観音森には大同年間(八〇六~八一〇)大須郷へ通ずる道があり、観音堂や旧枡川村・旧女鹿村(現・遊佐町)があった。ところが盗賊・山賊の被害を受けるので、道を三崎山に移した。その後、年月不詳ながら観音森にあった村は下屋敷、上屋敷と呼んでいる場所へ移った。ところが、ここも山中で生活不便のため枡川、女鹿の二つの村に分かれ、現在地へ下がった。二ヶ村は元来同一村なのでお互いに枡川・女鹿を結ぶ山道を開き交流してきた。また、観音森の西南にあった観音堂を枡川へ移した。その跡は今でも残っているとある。さらに峰傍には宝永年間(一七〇四~一七一一)の裁許図面に仁賀保道がある。峰傍より笙ケ嶽の間の山は険しく、古来より鳥海山境内の拝所がある、とも書かれている。仁賀保道が小滝へ通ずる道であったものか。
観音森の周辺に村落や寺院があったのは確かのようである。寺院は枡川観音堂だけではなく、女鹿の松葉寺、落伏の永泉寺、小砂川の雲昌寺(賀春院)などであるといわれる。
観音堂跡を確認するために踏査した池田英治(地元象潟の人)によれば、次のようであったという。観音屋敷は観音森の西南方向に地均しされた一〇㍍四方の平坦地である。季節風を避けるためか西側と北側は堀取り(土塁状)に並ぶ四個の楚石がある。この楚石は、その辺に散らばっている石とは違い、下から運び上げたものと思われると。
抜粋「象潟町史 通史編上」第3章「古代の由理地域」P251 観音森経由の道
★三崎峠の開削
先の「理由書」に観音森から大須郷へ出る道は三崎山へ転道したと書かれていた。これは慶長十四年(一六〇九)四月、遊佐の菅原左馬之介政次が子孫へ書き残した「山之仕置之書物之事」(飽海郡誌・巻之九)によったものと思われる。このほか、三崎山道について記したものに「吹浦・蚶潟水道記」(飽海郡誌・巻之二)がある。水道記を要約すると、三崎は観音崎。不動崎・大黒崎の三つを合わせた名称である。その昔、女鹿村の北方には道が無く、日和をみはからい小舟で小砂川へ出かけ日用品を入手していた。鳥海山観音森の道は極めて大廻りであり、他郷の人もこの道を通るのに非常に難儀していた。もし三崎峠に道が開かれれば、村人や他村の者はもちろん、国家としても大きな利益になると考え、近辺の村人が集まり、天平勝宝七年(七五五)頃、道づくりを計画し、実行に移した。岩石を砕き、大木を伐り倒し、土を運び、高い所は切り崩し、低い所は土を盛り、千辛万苦のすえ二年余りを費やして完成した。しかし、この道は幅一間程度の小径であったろう。
以上、二つの記録は伝説を記したものである。だが、この伝説を荒唐無稽でなんら根拠のない単なる伝説にすぎないと一笑に付し去ることはできない。大同という年号は東北古代の伝説にしばしば登場する。(天平)勝宝年号(七五〇-七五七)は聞きなれない年号である。それだけ真実味を帯びて迫ってくるようである。
「飽海郡誌」は、「三崎開道ノ年代ヲ一ニ天平勝宝七年ニ係ケ、一ニ大同二年トスルモ共に傍証ノ資ルベキモノナク頗る(すこぶる)覚束(おぼつか)ナキ伝説ナルモ、桑ノ森(観音森)ノ迂回ト海路ノ不便ニか駆ラレ、之ヲ開通セラレタルモノナルベク、爾来(じらい)桑ノ森ハ猟師、杣夫若クハ戦争ナラデハ通行スルモノナク漸次(ぜんじ)、廃道ニ帰シタリ」とある。
抜粋「象潟町史 通史編上」第3章「古代の由理地域」P253,4 三崎峠の開削
★三崎新道の開削
秋田・山形県境に跨る三崎山は、鳥海山の第三紀噴出で猿穴から流出した溶岩が日本海に落ち込む辺りに位置し、かつての「有耶無耶関」跡とも言われる。全山が石また石の険しい地形で、昔から箱根に勝る「天下の険」として有名だった。
ここに初めて道路が開かれたのは貞観年間(八九五-八七七)、この地を訪れた慈覚大師で、地元民を総動員して完成したとの伝承がある。それ以前は海岸部を避け、山側(吹浦-落伏-観音森-猿穴-小滝-塩越)を通ったとされている。 慈覚大師の開いた道路が「三崎旧道」と称されるようになったのは明治十年(一八七七)、三崎山を開削して新道(砂利道、三、〇〇四〇㍍)を完成させたからである。
この新道は当時の山形県令(知事)三島通庸(後に警視総監)の英断によるもので、明治九年に着工し、わずか一年三カ月で全通した。総工費は一万円。当時は今日のようなダイナマイトや強力な土木機械の無い時代。駆り出された地元民の難儀は大変なものだったに違いない。
抜粋 「象潟町史 資料編Ⅱ」 第一章「国家大改革の明治期」P110 三崎新道の開削
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